「ペーター・ダム」とは
「ペーター•ダム」その人について、ペーター•ダムご本人のオフィシャルサイトの経歴を自分で抜粋し、翻訳した上で補足しながら記しておく。固有名詞の表記に誤りがあればお許しいただきたい。
ペーター•ダム(Peter Damm) は1937年、第二次世界大戦終戦前のドイツ、マイニンゲン(Meiningen)で生まれた。11歳のときにバイオリンの教育を受ける。1951年(14歳)にフランツ・ノイバー(Franz Nauber)にホルンを学び、その後 1957年までワイマールの音楽大学でカール・ビーリッヒ(Karl Biehlig)に師事する。
1953年(16歳頃)に初めてオーケストラで演奏し、マイニンゲンで「ヘンゼルとグレーテル」をクリスマスに演奏している。2年後の1955年にはソリストとしてモーツァルトの「ホルン協奏曲 KV447(第4番)」を演奏してデビュー。
1957年(20歳)には The Orchestra of Geraにて首席ホルン奏者としてのキャリアを始め、1959年にはライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席奏者となり、1969年(32歳)まで在籍。
1969年にはドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席奏者となる。このキャリアは最も長く2002年(64歳)まで続く。退団後はドレスデン Carl Maria von Weber音楽大学(ドレスデン国立音楽大学)で教鞭をとったが、2007年には惜しまれながら引退。「人々が惜しんでくれるうちに引退しなさい」という自身のモットーに従った。
ペーター•ダムは東ドイツの奏者、と言われることが多いが、彼が生まれた1937年にはドイツはまだ東西に分割されていない。ドイツに二つの国家が誕生するのは1949年なので、生まれてから12歳まで東西どちらでもないドイツで過ごしたといえる。しかし、マイニンゲンは西ドイツにかなり近いといえども東ドイツの街であり、その後ペーター•ダムはライプチヒ、ドレスデンと、東へ東へと活動の中心を移していく。
もしマイニンゲンが西ドイツ側だったら、彼はどんなキャリアを西側で歩んだのだろう。歴史にifはないと言われても、想像してみたくなる。
ナチス政権下のドイツ、大戦後は冷戦中の東ドイツ、そして統一ドイツ、という激動のドイツ史を生きてこられたのですね。